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英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その2)

2. ストラトフォード・アポン・エイボンにて

シェイクスピアの父であるジョンがイギリス中央部のストラトフォード・アポン・エイボンに引っ越してきたのは1550年頃である。もともとは近隣の村であるスニッター・フィールドでシェイクスピアのおじいさんにあたるリチャードの経営する大農場を手伝っていた。ここストラトフォードに移り住んだジョンは革手袋の会社を作るかたわら、羊毛や精肉の流通なども手がけ、順調に財産を築いていった。それから3年後、故郷の村の近くに居を構える裕福なアーデン家から嫁をとる。シェイクスピア家に嫁いだのは8人娘の一番下で、後にシェイクスピアの母となるメアリーだ。

メアリーとジョンが暮らし始めたストラトフォードと大都市ロンドンとの位置関係はというと、馬で2日、徒歩で4日というところにあったが、オックスフォードやウォーウィックなどの内陸部の主要都市までは近い。ストラトフォード自体は12世紀末から市場でうるおってきている町で、ギルドとホーリー・トリニティーという2つの教会が今日まで存続している。ギルド教会は国王エドワード4世の命を受けて、グラマー・スクール(小学校)を設立し、幼少のシェイクスピアもここでラテン語を含めた初等教育を受けたとされている。ここでのエピソードは晩年の「ウィンザーの陽気な奥様たち」中のラテン語のばかばかしいレッスンのシーンや「お気に召すまま」に登場するのジェイキスの人間がたどる7つのステージのスピーチの中に「朝が早くて学校に行きたくないから、なめくじが歩くようにのろのろ登校する」といったところに使われている。

1556年には2つめの家を購入し、革製品の商売も順調にいっていたジョンは政治の世界に進出して、町の議員となり、助役まで約10年かけてのぼりつめる。そんな折、1564年に二人の間に生まれたのが後の大劇作家ウィリアム・シェイクスピアである。8人兄弟の三番目で待望の長男に両親は跡取りができたと手放しで喜んだのは言うまでもない。当時の出生記録によると、Guliemus filius Johannes Shakspere(ウィリアム、ジョン・シェイクピアの息子)とあり、キリスト教徒としての洗礼を新生児の命名と同時に行っているのがわかる。

全て順調にいっているように見えたシェイクスピア家であったが、ジョンがジェントルマンという称号を受けられなかったことをきっかけに、一家の運勢は一気に暗転する。積み重なる事業での借金は妻メアリーの不動産でいくらかしのぐも、残った負債で首が回らないジョンは町議会から政治の場からいったん離れるように言い渡されてしまった。敬虔なカトリックであった彼ではあったが、借金取りの猛烈な取立てによる恐怖から、教会に行くのも止めてしまった。

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