英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その12)
12. グローブ座
チャンバレン伯爵の一座の本拠地、ロンドン市北東部のシアター座では土地リースの契約更新を巡って問題が発生していた。ショアディッチ地区と呼ばれる人気のあったこの商業リース地の契約交渉の最中に、借主のジェイムズ・バーベイジは他界し、シアター座の問題解決を息子のカスバートに託した。しかしながら、交渉は決裂し、チャンバレン伯爵の一座の運命は暗礁に乗り上げたかのように見えた。カスバートはこの逆境の中、おもいきった方法で道を切り拓く。それはシアターごと引越しするという大胆な解決策であり、父ジェイムズの跡を継ぎ、自らも大工であったカスバートならではの発想であった。土地リース契約が失効する3日前の1598年12月28日、カスバートは仲間の大工であるピーター・ストリートと12人の作業員をひきつれ、シアター座を一日のうちに解体したのである。解体されたシアター座は荷馬車に載せられ、ロンドン市内を南に向かい、テムズ河にかかるロンドン橋を渡って、サウスワーク地区にやってきた。カスバートは解体したシアター座を8ヶ月のうちに再生し、チャンバレン伯爵の一座の新しい本拠地となるグローブ座を建立した。皮肉にもこの場所は若き日のシェイクスピアがチャンバレン伯爵の一座の前進であるストレンジ伯爵の一座と共に、演劇活動を行っていたローズ座と通りをはさんだまさに目と鼻の先であった。
1567年から1623年の間には通算23個のオープンエアー・シアターが建設された。個々のシアター建築になんらかの差異があるものの、グローブ座をはじめとした当時のシアターには、パブリックとプライベートという二つのタイプがあり、おおまかには前者は屋根の無いオープンエアー構造で、一般客のために設計されたもので、後者は屋根のある構造を持ち、貴族階級の客のためにつくられたものである。一般的にシェイクスピア・シアターと呼んでいるものは前者のオープンエアーであるが、ステージの上半分には屋根があり、ステージ後方よりせり出したその屋根が二本の柱によって支えられるという基本的な構造が見られた。
シアターの全体像としては、高さが平均12メートル、シアターを上部から見ると円形か八角形で、その直径は約24メートルあり、約4メートルの奥行きを持つ三階建てのギャラリーと呼ばれるバルコニー席とボックス席がぐるりと内側にある。オーディトリアムと呼ばれる普通席には舞台に向かって、よこ19メートル、たて8メートルくらいの場所が割り当てられ、このエリアには椅子も屋根も無く立ち見であった。オーディトリアムから一段高くなった舞台の横幅は12メートルだったので、役者が一度に舞台に立てる人数は12人以下であったが、反対に観客数は2千人から3千人くらいの収容能力があった。このことは演じる側と観る側の距離が近く、ライブ感を重視した作りであることがうかがえる。ステージ後方にはミュージシャンズ・ギャラリーと呼ばれる生演奏のバンドが入る場所と役者たちの控え室があった。ステージ後方の壁には二つのドアがあり、役者の入退場に使われる一方、ステージ床にはトラップドアと呼ばれるドアがあり、悪魔の登場、役者の瞬間消滅、あるいは死者の埋葬といったドラマティックな演出に利用された。ミュージシャンズ・ギャラリーの上部、屋根のついたギャラリーの三階には大型の舞台装置が配備され、ここから神の降臨などの演出効果を作り出していた。この屋根の上部にはポールが取り付けられ、芝居があるときはその印として一座の旗がかかげられ、誇らしく風になびいていた。
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