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英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その8)

8. ロンドン人口大激増

シェイクスピアが28歳になり、すでにロンドンきっての舞台芸術家として頭角を現していた1592年、ロンドンの町自体、人類の歴史上始まって以来の急速な発展を遂げる最中にあった。ヘンリー8世(1509−1547)の時代には人口約5万の町でしかなかったロンドンは、エリザベス1世(1558−1603)の安定した統治と地方からの人口の大流入により、20万人を超える大都市に様変わりした。これはわずか10年強で人口が4倍になったことになり、世界中のどんな都市もこれだけ急速に人口が増えた例がない。ロンドンの町は三方をローマ時代から続く城壁で囲まれており、残りの一方は南のテムズ川が担っていた。

ロンドン市は公共のモラルを大切にしているという理由で、当初シアターを始めとする娯楽産業を市の管轄区域外である、テムズ河南岸のリバティー地区と呼ばれる場所に追いやっていた。アンドリュー・ガー著の「シェイクスピアのステージ」によれば、リバティー地区にはローズ座(1587)やスワン座(1595)、グローブ座(1599)ならびにホープ座(1614)の4シアターがあったとされている。シアターに対する酷評は当時の有識者であるジョン・ノースブルックと、もともとは戯曲作家であったステファン・ガッソンの1579年の著書に残されている。それによれば、シアターでは悪魔によって悪事を行うことをそそのかされ、その結果として、善良な人々が誠実な仕事を続けていくことを困難にさせてしまう忌まわしい場所であるとしている。これに対して、トーマス・ロッジは彼の著書「詩、音楽、舞台芸術への支持」の中で、芝居は人々にモラルを教えることのできる格好の媒体であり、観衆を正義感のある有徳な行動に導くものだと弁護している。いずれにせよ、批判の的であった芝居はロンドン市内のブルやベル、あるいはクロス・キーズといった有名な宿屋や酒場で演じられていたので、モラルに目を光らせていたロンドン市も政府もマスター・オブ・レベル(シアター取締りのために作られた行政機関)も完全に統制がとれていなかったということである。

田畑や庭が次々と開発目的で造成され、住居へ様変わりしていく中、ロンドンには深刻な問題が浮上してきた。衛生上の問題から発生した大規模な伝染病がそれである。人口が大激増したロンドンは清掃事業などの社会的基盤が追いついていないので、緑豊かな美しい町というよりも、汚臭の漂う汚い町であった。伝染病の流行により、人が集まるシアターはすぐに閉鎖されたので、役所による公共のモラル重視の行政より、伝染病のほうがはるかにシアターを封じ込める効果があったと言える。伝染病が猛威を振るった結果、シアターが建っていたテムズ川南岸のリバティー地区は治安が悪化して、こじきやすりなどが集まって凶悪犯罪が横行した。1564年の最初の伝染病流行以来、10万人以上が伝染病の犠牲者となり、死者はロンドン中心部から周辺の町まで広がった。

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