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英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略その7 とも英語塾 府中

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英国エリザベス朝及びジェコビアン朝における政治、社会、経済、宗教、文化の発展がウィリアム・シェイクスピアの戯曲に与えたインパクトの概略(その7)

7. できちゃった結婚のシェイクスピア

グラマースクールでの初等教育を修了したシェイクスピアは、父親ジョンの経営する皮手袋製造販売業の見習いとしてしばらく働いていた。1582年に当時18歳のシェイクスピアは、彼の住むストラトフォード近隣の町、シャータリーで農家を営むヘザウェイ家の娘、アン(当時26歳)を嫁にもらう。この時、アンはすでに妊娠3ヶ月であったので、カトリックの教えが広く一般的に浸透していた当時のことを考えると、家族や親戚一同を巻き込んでの大騒ぎになってしまったことは想像に難くない。幸運にも、カトリックには教えに背いたことに対して、おとがめなしという特別免除(ディスペンセイション)があり、いわゆるできちゃった結婚のシェイクスピアとアンの場合もそれを利用して再出発することになる。彼らの住んでいた町を管轄するカトリック教会のウォーセスター司教からディスペンセイションを施され、無事に所帯を持ったシェイクスピアとアンにはその翌年、長女のスサーナが誕生する。さらに、その翌々年には女児の双子が生まれて、ジュディスとハムネットと命名され、カトリック教徒としての洗礼も受けさせている。余談ではあるが、アンがシェイクスピアより8歳上であったことから、おそらく先にモーションをかけたのは経験豊かなアンのほうであり、その年齢差による経験の差ができちゃった結婚につながった大きな要因ではないかと容易に推測される。

その直後の1585年からの8年間、シェイクスピアの足取りを確実につかんでいる西洋演劇研究者はいないのだが、歴史家のジョン・アウブリーはシェイクスピアは公立高校の先生になったと書いている。しかしながら、シェイクスピアは初等教育しか受けていないので、先生になれる資格がなかったことは明白だから、これはおそらく間違いで、ある貴族の家族付きの家庭教師になったというシェイクスピア研究者のハリー・アブラマスの説が一般的である。他にも、当時一流の詩人であり、演出家でもあったウイリアム・デイブナンの一座で貴族がシアターへ乗りつけてくる馬を預かる、今で言えばドア・ボーイのような仕事をしたのち、プロンプター(台本の読み手)として興行を手助けしていたとも言われている。数ある仮説のうち、最も信憑性が高いのは、シェイクスピアは双子の出産後まもなく、父親の皮手袋製造販売業の手伝いを辞めて、ストラトフォードに家族を残して単身ロンドンに行ったこと。そして、クイーンズ・メン一座に欠員が出たことにより、幸運にも演劇無経験のシェイクスピアは駆け出しの役者になることができて、そこで芝居をしながら、シアターの仕事を身につけていったという説が最も有力である。

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